「南無阿弥陀仏」とそれだけ唱えると救われるのか
家は本願寺です。お葬式もです。
お寺さんがやってきてお経を唱えていくのも本願寺です。
東だったのかな
だけど本願寺自身が仲直りして
最近は関係ないのかな
だけど自分ちは元々、西らしい
まあ、でもどっちでもイイやって父が戦後、引き揚げて
定着してから近所の坊さんを呼んで来たのそのお寺さん
南無阿弥陀仏」そう唱えるだけでいい
その理論はこうだ
「そう信じるしか自分には救いはない」
だからそう信じる
ということなんだけど
「おすがりするしかない」はその通りだ
僕は親鸞は大変に尊敬して共感もしてる
行き着いてる
結論から言うと
「南無阿弥陀仏」と唱える必要もない
否、唱えるのは不敬だ
救っていただける
否、救われた
既に救われてる
なんでだっていう論理の展開だけど
これが正しい彼が正しい結論してる
だけどそれだと
唱える必要もない
むしろ唱えなくていい
唱えちゃいけない
っていうことが親鸞の悟りだと思う
親鸞の悟りは
南無阿弥陀仏と唱えてはいけない」だ
技術的な話をするのは不味いんだけど
これは結縁する「阿弥陀と」
阿弥陀さまに結縁したなら
救っていただけるに違いないって
その通りだと思う
人は救っていただくしかない
自力救済なんて無理
これはその通りだと思うよ
だけど「だから努力しないでいいって
いうのは言うのなら
それは違うけどね、別物だよね
だけど人殺しが定めの侍なんて
唱えるしかないわな
そしてそれで救われるのだろう
神に逢えば神を殺し
仏に出会えば仏を斬る
という侍の悟り
それもそうなんだけど
技術的は
仏の邪魔するどころか
殺したりして
その罪業は無量なんてものでない
の解るだろ
救われるまで
どれだけ苦しみ時間がかかるんだ
って話だ。それは解るだろ
これはとんでもなくバカな話だ
だから仏に殺されるのが一番いい
という修羅を行く殺戮者の悟りも間違い
その罪穢れの罪業が晴れるまでに
何億年かかることか
取るべき道としても間違いだ
自分が救われるはずのない者だとの自覚
これに立つことの重要さ
それにしても
この信仰の輝きは、ここにこそあるよね
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